書いてくださった方 | 東日本大震災後の相談員 |
不登校となった時期 | – |
きっかけ | – |
その後の進路など | – |
学習方法 | – |
私は、東日本大震災後に某団体職員として相談員の仕事をしていました。
私たちの仕事は性別も年齢も被災したかどうかも関係なく、困った人のもとへ急ぐといった感じです。
その中で、不登校の児童にはたくさん出会いました。
両親を津波で失ってしまった悲しみや、コミュニティの変化についていけずに不登校になってしまったり理由は様々ですが、対応が難しかったのは事実です。
まず、会ってもらうまで通いつめて、話をしてくれるまで待ちます。
学校に行かない事は責め立てず、見守るだけというパターンが多かったです。
学校の先生や市役所の職員も訪問し、原因を理解したうえで「来たかったら、来て」と保健室やカウンセリング室の窓やドアを開けっぱなしにしていました。
学校に通っている子供でも、スクールカウンセラーの部屋までしかいけないと聞いていたので、悲しい話もせず、昨日見たテレビの話や好きなペット、好きな歌手の話など「特別な子」としては見ないで雑談したり、公園で一緒に遊んだりしました。
次第に学校へ行く児童もいましたが、中学校の卒業式にも出席せず、未だに不登校の子もいます。
震災の傷は、元気そうに見える子どもたちでも時々かんしゃくを起こしたりするので、まだまだカウンセリングなどが必要だと感じます。
震災のあとに宮城県で不登校児童が増え、全国で1位となった記事を見たことがあります。
震災がきっかけの不登校。あまりにも大きなきっかけで、どう言ったらいいのか。
今、2021年3月。あれから10年が経ちました。多くの記事を目にします。
どれも、想像を絶する経験で読んでいるだけで涙が溢れます。
その中に、娘さんの不登校、リストカットと向き合ったお父さんの記事がありました。
このお父さんの向き合い方、言葉がとても印象に残っています。
参考 「傷つけるならパパの腕をやりなさい」リストカット繰り返した娘は立派に育った 父娘の10年Yahoo!Japanニュース
管理人より
まとめ記事はこちらです。